美しさの定義

美しさといっても言葉にするのは難しい

いつの時代でも、人は常に美しくあり続けたいと考えている人は多いと思う。美しさといえば大抵女性が追い求める究極の願望であり、生涯をとして叶え続けたいと思い続けているものだろう。美は女性が追い求めるもの、それが常識であり、男がそのようなものを追い求める事は違うと考えられていた。だが実際のところ、本当に美という願いを求めるのは女性だけが願い続けているものなのだろうかと、少し疑問に思った事がある。そもそも美しさという物は一体何を定義したもので、どのようなものを形として容姿に反映させることが出来れば美しいと認める、もしくはそう思われるのかと分からないことが沢山出てくる。実際、美とは何かと問われて100人が全員同じ答えになる事は当然無い。ただその答えで注目するところは答えの内容ではなく、中身について考えてみるべきだ。答えとして提示してきた美というものに対する定義、大半の人が非常に曖昧なまま捉えて表現している人が多いのではないだろうかと、筆者は考えている。

では美は何をどのようにしたら体現できるのかというと、それは究極的な意味で『完璧さの理想』と関わるものだと考えられている。もちろんこれは一般的な見解ではなく、哲学的な意味合いとして考えられた定義となっている。しかしながら、この完璧という言葉はあながち間違ってはいないと個人的に考えている、無駄のない、付け入る暇もないほどに求められた完璧な存在として描かれるものほどより美しさという抽象的な言葉が非常に当てはまるといえるのではないか。

ただそれを人が追い求めるには非常に高い壁を感じられる、というよりも人間がそのような高みへと到達する事が本当に出来るのかと、そんなことを思えるほどだ。どうしてそう感じるのかというと、完璧という言葉が足枷になっているからだ。人間と言うものは常識といったものに縛られること無く、どのような面においても不完全な生き物であり、決して完全な人間などこの世に存在している。そもそも完璧というような人間など存在するはずも無く、欠点があるからこそ人間が成長するために必要な要素として人間には課せられている。

1つ先に訂正しておく、別段ここで完璧な人間なんて存在していない、お前達はどうしようもない愚か者であるなどといったような、そんな押し問答をしたいわけではないことを先に告げておく。あくまでここでは美というものに対してどのような定義で述べる事がより、一般的な見方になるのかを考察していく。

美を観念とした言葉で固定する事は容易ではない

美というものはどのようなものなのかと話をして行くと、正直終わりの見えない討論を繰り広げることになってしまう。特に芸術関係者からすれば美について1つに意見を集約して議論してくださいなどといえば、結論など見えてくるはず無いだろう。また美といってもどのようなものを美しいと捉えるのかも人によって異なるところだ。現代においてもだが、この美というものを追い求めるとなったらとんでもない論争が巻き起こる事が目に見えている。また、決して決着を見る事の無い争いに発展すると、その火種は全く関係のないところにまで発展するといった飛び火する恐れも出てきてしまうなど、もはや美意識に関する討論どころの話ではなくなってくる。

こんな話をしているとさすがにキリがなくなってくるので次へ行こう。美を表現する方法として肉体的なものも確かにそうだが、やはり一般的な意味で至高とも言える美を物質的に固定化することが出来る手段だ。またそれを表現するために対称性、釣り合いといった美しさを際立たせる要素を持たせることでより美しさを華やかに表現することも手段の1つとして取り入れられていた。また古代期において美を方程式化・公式化する考えは既に存在しており、誰もが美という曖昧な価値観を追い求めていたことも窺い知ることが出来る。

ただ数式などで導かれる美しさと人間が求める美しさは、計算で導き出せるものではない。特に人間の場合、完璧とも言うべき美しさは計算されて作る技術などこの時代には存在しない、現代においてもクローン技術は徐々に開発されているが、それでも実用的な利用が出来ない時点でまだまだ不可能となっている。そうなると人間において完璧な美しさを手に入れることとは、どれだけ美しい配偶者を娶る事が出来るか否か、そんな運も絡んでくるという非常にリアリティさが出てくる部分だ。そうなると古代の人も中には美形の人としか結婚しないと、そんな風に考えていた人がいたことを証明するところでもある。全く持って、いつの時代も人間は常に自身の欲望には純粋たる眼差しを向けるものだと感心してしまうほどだ。

流動的な美意識

美という物は非常に曖昧かつ、そしてとても捉えどころの無い存在となっている。それもこれも時期によって求められる美という物は形や色が変化するものだ。誰もが美を一心に求める部分があったとしても、その美が現在求められているものに叶っているかどうかも、汲み取る必要がある要素として考えなくてはならないという部分もある。ただ美を求めすぎるがあまり、人間社会で歪みを生み出してしまう原因となってしまうこともある。単純に経済的利益や劣等感を煽る動きによって、美しくなければならないという恐怖支配されてしまうという変質性を伴っている場合がある。

いつの時代でも絶世の美女と称されていた女性たちが存在していたものだ、その例としてあげるなら楊貴妃やクレオパトラなどといった美しさ溢れた女性達のことを考えるとわかるだろう。彼女達はその容姿が整っていると、それこそ世の女性たちが憧れを抱くような存在として表現されている文献などを見ていればわかると思うが、決して平穏な人生を生きているとは言えないような生涯を送っている。時に男性を求めるため、時に政権における材料として、またある時は国の誇りとして死後も嬲られるといった、そんなこともある。ただ美というものに優れていただけだった女性達は、当たり前のような幸せを獲得することができない時代でもあった。ただこうした背景は現代にもどこか共通しているような部分がある、特に昨今のメディアで活躍する女性たちは常に同様のメイクをして、同じような顔立ちをしている女性たちが乱立している。それを見て美しいと感じる人もいるかもしれないが、裏側では女性たちの骨肉とした争いが展開されている事は何となく想像することが出来る。

このように、本来なら追い求める形は違えど、美というものを追求すると常に他人との争いに巻き込まれることになる。何をおいても人は闘争から逸脱する事はできず、人よりも一歩先へと進もうと考えている人が常々多く存在している。美を求める道とは、今でこそまだそこまで表立ったような争いは見せていないので平和的だが、かつての時代における美を追求する中では、時に権力に巻き込まれ、時に陰謀へと利用されるなど、その戦気は決して安寧したものではなかった。

美とは何か

美しさの定義とはこうである、そう断言できる人は誰一人として存在しない。通じたとしてもそれが海を越えた異文化で同様に理解してもらえるモノではない、本当の意味で万国・万民共通として語られる美しさを決めるとなれば、どれ程の議論を重ねたとしてもその答えを導き出すのは不可能かもしれない。それもそうだ、日本でいうところの美人として語られる定義の1つである『色白』という言葉があるが、これが黒人にとってどうしてもなることは出来ない。厳密に言えば日本人も黄色人種のため、正確な意味では色白になるというのは不可能だ。だからこそ白人の透き通った肌を求めるのかもしれない、だが白人にとって日本の気候と皮膚として役割があまり機能しないという問題もある。日本人の肌は日本で生きる人用にて環境適合している、それを改造するというのは根本的に不可能だ。世間一般で広がっている色白美人などと言われているが、大半が黄色からはかけ離れる事の出来ないにごり交じりの色白、というカテゴリーになると考えていいだろう。

日本においては美を求める人の定義に『色白』が1つとして挙げられるが、その他の定義については様々な意見が飛び交うこととなる。それを統一にするべきだろうと考えている人もいるかもしれないが、美意識をまとめて考える方法論も蛮行に値するものだ。どうしてか、それは個人によって美に対しての捉え方が違っており、そして人が他人ではないという大前提を踏まえれば、美意識に対して自分なりにアレンジした考え方を持っているのは必然とも言うべきもの。そうした感情を蔑ろにするような行いをするものもいるが、恐らく大部分で間違った美を教えていると認識しても良いかも知れない。

美については単純に化粧という社会文化に通じるのはもちろんとして、学問として考えるならば永題といっても過言ではないほどに難しい問題として扱われている。究極且つ最難問、もしかしたらどんなに人類の叡智が養われても解決という結論に達する事は不可能かもしれない、そういった類の問題として扱ってもいいのかもしれない。また学問として考えた場合、美というものは何も化粧などの方法によって身奇麗にされた容姿だけに限った言葉ではない。美は本来、様々な情景に対して使用される言葉だ。人間を見て美しいと感じない人でも、自然界のある風景をその目に焼き付けるほど感極まる後継が広がっている際にも、恐らく美という言葉を使いたくなるものだ。そうした以外にも、

  • ・年相応に見合った立ち振る舞いをしている
  • ・身なりはもちろん、礼義・マナーがしっかりとしている

といったようなときに綺麗といった言葉を使用する方が非常に適している。海を越えたとある某国では自身の体をいじることが文化となっているが、筆者的に正直どうかと考えている。確かに身なりを重視する事は大事だが、全員が全員同じ顔に変化するというのは異常とも感じている。美しさを追い求めての結果なのかもしれないが、だからといってある人物の顔を模倣するようなことをして、それで神の意味で美という究極性に辿り着けるのだろうか。化粧や整形も1つの手段として取られているが、自己表現として用いられるようになった現代社会により、美意識が根底から歪められていると考えることも出来る。人それぞれで表現する美しさは十人十色、全く別物だ。それを理解して、自分にしか出す事の出来ない色を最大限表現できているひとこそ、美しさという究極性に王手をかけているのかもしれない。こう言ってはなんだがどのような研究家であってもその境地に到達している人は少ないと見るべきだろう、もちろん用意にたどり着ける場所でもないため簡単な話ではない。

人間が古代から追い求めている美というもの、それを学術的に、また単純に日常のテーマとして話し合うことになったら結末という地点まで到達することもたやすくはないことを痛感するかもしれない。

目指すは美魔女